大人ADHD 月子の生き方

アラフォーにして、突如『大人のADHD』と診断された月子。 迎えた転機に人生を見つめ直し、新たな生き方を模索すべく日々奮闘中!

別れましょう、私から♪ ADHD診断前の月子の離婚【EP.5】

今までの経緯から、今回は大きく変化が出てきます。

度重なる Aさん暴言とモラハラにも似た言動と行動。

今回は月子が感じた恐怖を書ければと思います。

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ADHD イラスト 紙と筆と失敗(笑)


前回〝偽シフト事件〟から私本人の首を真綿で絞める事に繋がり

いよいよ、Aさんの本性が出てきたように思います。

その結果、私は Aさんとの生活に疲れ始めていたし

逃れたい思いから身体を病み、心まで蝕まれた状態になってました(汗)

 

そんな時に実家の母が心配し、東京まで様子を看に来てくれました。

母との話では「少し帰っておいで」と言ってくれたので

私もこのままだと Aさんとの婚姻生活も継続できないので納得しました。

勿論、私自身は当時を振り返ってみると抵抗していたように思います。

意地でも結婚に〝失敗〟と云う二文字を形付けたくなくて

Aさんがいつか理解してくれるのではないかと甘い期待すら持ってました。

しかし、確実に身体と心のバランスは崩れているので渋々納得した形です。

 

その時、急には郷里には帰れないので

私が勤めていた会社には休職する旨をお願いしたり

会社からは慰留されたりと、なかなか前に進めない状態でもありました。

ですが、私の様子がおかしいのは周知の事実になっていたので

会社も「惜しいことだけど…」と、了承してくれたのです。

 

母が来てくれたのが夏の初めであり…

私が休職して郷里に帰ったのが、夏の終わり頃だったと記憶してます。

 

 

帰郷するまでの経緯

ADHD イラスト 許さない!


いきなり、帰郷できたワケではないのです。

先ずは帰郷したい旨を前夫である Aさんに打ち明けるのが最も苦しい事でした。

Aさんからは「それは許さない」と、最初は断られたりもしました。

 

実家の母が東京まで来てくれた事や、既に会社は認めてくれた事…

それを Aさんに伝えると「俺の知らないところで話が進んでる」と不機嫌になり

尚更、意固地になって帰郷を認めてくれませんでした。

 

この頃には、私は Aさんによる発言から体調の変化や気疲れを起こすので

帰郷が許されないのであればウィークリーマンションでの別居等を提案。

その間にも Aさんは次々と私を罵ったり、下に見る発言を繰り返してました。

 

「本当に何も出来ないダメ人間だな!」から始まり


「これは俺じゃなかったらもっと言われてる。」とか…


「お前のようなダメな人間は、俺くらいしか相手が出来ないだろう。」


「もし、俺と別れたらお前は一生独りだ。可哀想にw」


矢継ぎ早に放たれた弓は、真っ直ぐ私の心に突き刺さりました。

 

こういう状況を郷里の母だけでなく

私の兄弟や親族もそろそろ心配し始めたようで

何かと私を受け入れる準備をしてくれていたようです。

もっとも、Aさんと一緒に居る私を心配する親心から

ウィークリーマンションを提案したのは母でした。

帰郷するまでの繋ぎとして、ベストな提案でしたが

Aさんはそれを次のように答えます…

 

「そんなくだらないことにお金を遣わず、ここにいればいいじゃないか!」


「ああいうところは、安くないんだぞ!?」


「行ったら行ったで好き勝手するつもりだろう…そうはいかないからな!」


「ここから出ることは許さない!


「帰るまで住まわせてやるって言ってるんだ、ありがたく思え。」

 

結果的にウィークリーマンションは断念しましたが

私自身が既に正常な判断を下す事も出来ない状態だったのです。

 

考えてみれば、仕事が継続できてたのは

Aさんとの暮らしに疲れ、逃げ場として職場がオアシスだったのかも知れません。

過食をしてしまったり、お酒を飲む事で現実から逃避している事も

最早限界が来ていたんだと思います。

周りは私の変調に気付いていた人も多かったので

それをそっと前夫である Aさんに告げてくれた人も少なくはなかったのです。

 

ようやく、50日くらい掛けて帰郷の了承が Aさんから出ました。

それは周りの人の言葉から Aさんも決断はしていたのでしょうけど

Aさん自身は全く納得している様子はなかったのです。

 


そんな中、Aさん昇任試験合格があったんです。

勿論、妻として私も Aさん昇任試験合格は喜びました。

お祝いのメールをしたら Aさん「帰宅するのが遅くなる」と言うので

いつものように過食したり、Aさんが帰るまでの間は普通に過ごしていたのです。

 

予定よりも少し早く Aさんが帰宅した時…

私はまだ過食中だったので、テーブルの上には食べ物などが散らかっていました。

慌ててそれを片付けて Aさんを出迎えると…

 

「メールでは喜んでいる、お祝いをしたいみたいな内容を書いていたのに

 普通に出迎えるなんて、ふざけんな!今までお前のせいで大変だった中、

 俺がどれだけ頑張ってきたと思ってるんだ!」と、怒鳴られました。

 

ADHD イラスト 奇声を上げる


そこから延々とネッチリやられ、私も倒れそうなくらい圧迫されてしまい

とうとう、奇声を上げてその場に座り込んでしまったのです。

その時に初めて過呼吸になったり

身体に大きな震えが来たりとパニックになってました。

 

この時の様子は自分でも憶えていない事と覚えてる事があり

この〝奇声を上げる〟行為で、Aさんは私の帰郷を認めざる得なかったのでした。

 

 

久しぶりの帰郷と深刻な状況

〝別居〟「負け」だと認識していた当時、Aさんから辛辣な事を言われても

私はいずれ東京に戻ってやり直す気持ちでいたのです。

ここら辺って複雑だし、自己矛盾しているんです。

離れたい気持ちも確かに持っていたんですが、離れると Aさんが何かするのでは?

恐ろしさもあって離れられずにいたのです。

 

そんな私を実家の家族はどう思ったのでしょうか?

取り敢えず、メンタルが壊れているのか…心配だったのでしょうね。

 


帰郷して、少し時間が経った時に心療内科を受診する事になりました。

母の知り合いでもあった病院だったので、仕方なく…と云う感じで受け入れました。

 

初めは抵抗していたんですよ、私自身おかしくないと思っていたので(汗)

で、当時の主治医は鬱病を疑っていたのですが、私がそれを頑として受け入れないw

いきなり言われても大抵は認められないんだと思うのですよ、メンタルだから(汗)

 

なので、初めは『自律神経失調症』と云う診断をされました。

この時、軽めな処方だったのではないか?と記憶してます。

 

 

書けば長くなるのがアレなので(笑)

ちょっと端折って書いてみたいと思いますが…

勿論、メンタルの方もこのままではないですよね(泣)

 

再診して主治医に診てもらった結果、『鬱病』だと診断されました。

再診するまでの間にも、いろいろな事が周りで起こったり

私の心は儚げにも崩れて行く事があったのでした。

 

急に怒り出したり、急に号泣して兄弟になだめられたり…と。

この頃は自分のメンタルを毎日、維持するのは不可能となっていましたねぇ…

 


慣れ親しんだ家と雰囲気に私は安堵もしていたと思います。

でも、Aさんと過ごしていた東京を思い出すと怖くなったり

急に怒りが込み上げてきて泣き出す日々を繰り返します。

そうなると、数日間は虚無になり…抜け殻のような日々を過ごしてました。

 

 

別居してからの数ヶ月間での変化

ADHD イラスト 虚無の表情

ADHD イラスト 虚無の表情(アップ)


実家は人数分の部屋があったので、私も自分の部屋があったのです。

しかし、私は部屋に帰らずにリビングにあるテーブルの下で日々を過ごしてました。

一日の大半はこのテーブルの下にうずくまったり、横になったりしながらw

今考えると異様な光景だったんじゃないかと思うのですが

当時は、誰か見える範囲とか

生活音が聴こえる範囲に私自身が居たかったんだと思います。

 

1人になるのが怖かったのもあるんですよねぇ…

 

そして、死んだような数ヶ月を過ごした後…

休職中だった会社の面談に臨んだり、心療内科でのカウンセリングも始まりました。

しかし、この頃は外に出るのも以前よりは楽になった為に

いろいろな事が復活してしまい、アルコールの摂取や過食

同時に戻ってしまったのでした。

 

そんな中、地元にいた友達に私の周りで起きた事を聞いてもらい

相談するって形で、外部の人達と接触する機会を作りはじめました。

そして、その友達は引きこもり気味の私を積極的に外に連れ出し

以前の私が出来ていた事を取り戻そうと努力してくれたのです(謝)

 

帰郷してからの数ヶ月で、やっと Aさんの呪縛から解放されていたのですが

その呪縛は、洗脳にも近い形で表れていたので

まだ離婚する事も何も考えられず、ただただ現実逃避していた頃だと思います。

 

 

離婚を決意する!

ADHD イラスト 猛牛のマシンガントーク!


私自身が、まだ離婚を決意する心にいたってなかったのですが

周りからはすこぶる推奨されていたのです(汗)

前出の地元の友達や、母や家族…

心療内科の主治医にまで、「離婚した方が貴女の為だと思います」と…

 

初めはどうしても敵に思ってしまうんですよね(汗)

けど、段々と Aさんの呪縛から解放されて行く私の心が

「そうなったら気楽だし、病気にならないのかも」と、思うようになりました。

 


そんな中、婚家である Aさんと義母の2人と面会する事になりました。

病状の報告と近況の報告も兼ねて、私と母の2人で会いに出掛けてみると

やはり Aさんの母親たる所以ですかね?(笑)

私達親子が話に参加する隙を与えずに、マシンガントークが炸裂!

 

内容は大した事ではないのです(笑)


「ウチの Aちゃまが可愛くないの!? 愛してないのっ!?って話だったり


料理を作ってあげたいと思わないなんて!!(怒)


ウチの Aちゃまは愛されてなかったのねっ!(猛牛)と云う話がメインです。

 

その時にしきりに頷いている Aさんを眺めた私は…

Aさん自身に有利な話しか義母に伝えてないんだと悟りました。

 

それまでにもメールや電話で Aさんとは復縁の方向を模索していましたが

なんだか…


「やってられんなぁ…www」


急に笑いが込み上げたのも事実…

話し合いを早々に切り上げ、私はこういう結婚をした事を母に謝り

帰る途中は怒りと悔しさで泣いていたと思います。

母は「あんたの所為じゃないから、心配しないでいいよ」と一言だけ呟きました。

 


それからの私は第一目標が〝離婚〟

それを Aさん承諾してくれるまで諦めない不退転の決意にいたります。

まだ、Aさんは私が東京に帰ると思っているし

Aさんが昇任した事で暮らしぶりは良くなると思っているので

Aさん自身には離婚への危機感や警戒感はなかったのでした…

 

 

当時を振り返って

この頃の私は、自分の立ち位置があまり判らず

右往左往してしまってる毎日でした。

今考えてみると、ADHD独特の行動だったと思います。

 

一方的に言われ続けてしまう関係に辟易としてたし

かと言って、離婚すると云う事に何故か?罪悪感もありました。

離婚を勧める周囲を敵にも感じていた当時は

スンナリと私も受け入れる事が出来なかったんですよねぇ…

 

けど、Aさん昇任試験の結果が良いものとなったので

その辺が〝区切り〟だったように思います(笑)

私の区切りではないのですが、それは応援していたので。

 

何はともあれ、やっと正常な環境が戻ってきた…

そう言えるのかも知れませんが(汗)

 

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