前回は、“私がADHDだった!”と分かるまでの約7年間、
何度も困難な状況に直面し、その度に挫折を味わうはめになった夫について、
夫目線で語っていきました。
前回の話の末尾にて『発達障害者支援センター』へ電話をかけて
相談をした夫ですが、今回はその続きとなります。
『発達障害者支援センター』からのアドバイスを受けた夫は
家族会議を行うことにし、私に大事な話をはじめるのでした。
夫と月子と家族会議
その相談に必要なもの
『発達障害者支援センター』に電話をした夫は“発達障害かもしれない妻をどう理解し、対応すればいいのか、またその妻を抱えた生活をする場合のアドバイスが欲しい”等といった相談をしてみました。
そしてひと通り話し終わった後に、センターの方からこう告げられます。
「病院で発達障害かどうかの診断を受けていないのなら、まずは病院を受診して診断を出してもらってきてください」
そう、未診断のままでは詳しい相談等ができないということだったのです。
そこで、夫は“大人の発達障害の診断をしてくれる病院”を教えてもらいました。
(私の住んでいる地域の発達障害者支援センターでは、どうやらそういった方針のようですが、未診断でも相談を受け付けてくださるセンターも多いみたいです。)
こうして次へのステップを知った夫ですが、その前にこの一連のことを私に伝えて、発達障害の診断を受けに病院へ連れて行く必要がありました。
今日の議題は?
我が家において家族会議(話し合い)は都度行われていたので、私自身“今日はどんな話かな?”ぐらいの気持ちで臨んでいました。
そんな私に対し、夫はこう切り出します。
「月子って、色々とできないことややらないことが多いよね?これってやはり普通じゃないし、もしかするとそうなることに何か理由があるんじゃないかなと思う。」
「それは何かしらの“障害”…うーん“発達障害”じゃないかと思っているんだけど…」
夫の話によると、もし私が“発達障害である”ならば、今まで色々とできなかったことや普通ではないと感じていた部分に納得がいくし、このまま何も分からない状態で生活を続けて行くのにも既に限界を感じているとのことでした。
私たち夫婦の今後の関係性や家庭を維持するには、“前に一歩踏み出すことが必要”だと夫はそう決断したのです。
その時の月子
夫から突然“障害があるのでは?”と言われた私にとって、それはあまりに唐突で、大混乱に陥りました。
そして、思考がぐるぐると回っている中“確かに他の人と比べ、自分が変わっているという自覚は昔からあった!”と、混乱状態から抜け出すための糸口を見つけたのです。
それは私の中で腑に落ちた瞬間でもありました。
ショックを受け飛んでいた意識が戻ってきたかのように、その後は夫の話が素直に頭の中へ入ってくるようになった私(笑)
だったのですが、次の“発達障害”という発言でまたポカンとなります。
…恥ずかしながらそれまで『発達障害』という言葉を聞いた記憶がなかったのです。
アスペルガー症候群や自閉症、ADHD等といった言葉や特徴については、理解していたのですが、それらが『発達障害』と呼ばれていることを知りませんでした。
夫から説明をされてはじめて繋がりましたが、自分が“アスペルガー症候群”に当てはまっているかどうかは疑問に感じたのでした。
※この時点では、夫婦共に“ADHDである”可能性について考えられませんでした。
(何故なら、大人にADHDがあるなんて知らなかったのです!)
そして、病院へ?
自分が発達障害なのか疑問に感じつつも、夫の提案を受け入れることにしました。
その理由として
- 夫が家庭や家族、そして私の今後のこと考え、それまでの行動をしてきた
- 私が夫に長年迷惑を掛けてきた理由の中に、“障害”という可能性も考えられる
- 私自身、何故できないのかと思っていた原因が、はっきりするかも?という期待
それらを考慮した上で出した答えでした。
こうした家族会議を経て、私たち夫婦は病院での受診を決断したのでした。
↑入門書として読みやすく、ADHDもASも混在している方を知るにはいい内容です。
最後に著者の星野さん自身の体験談が載っていて、そこもかなり興味深かったです。
家族として進む道
“発達障害”という言葉すら知らなかった私ですが、当時を振り返ることで、行動する、そして知ることがいかに大事なことか改めて痛感しています。
実際、夫から障害があるかもという話をされた時はショックを受けましたが、でも今までの自分を省みたときに、そういった心当たりがあることも薄々感じていました。
それこそ、様々なこと全てが繋がった瞬間だったと思います(笑)
病院に行くことについては夫婦とも、“診断されることでもしかすると今後、改善する方法が見つかるかもしれない”、また“病院で何かしらの治療や、生活をする上でのアドバイスが受けられるかもしれない”等といった希望が持てるようになりました。
ある意味、家庭を1人で回すのに限界を感じていた夫にとって、残された最後の手段だった…のだと思います。
もしこの道に辿り着いていなかったら、生活の維持は難しかったのかもしれません。
今現在の私はというと、ADHDの治療を受けながら家庭や家族、そして自分のため、前に進むことができているこの状況をとても幸せに感じているのでした。
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